大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

名古屋地方裁判所 昭和46年(ヨ)884号 判決 1976年5月31日

申請人

四方八洲男

右訴訟代理人

小山斉

外二名

被申請人

三菱重工株式会社

右代表者

牧田與一郎

右訴訟代理人

酒巻彌三郎

外四名

主文

一、申請人が被申請人に対し労働契約上の権利を有する地位にあることを仮に定める。

二、被申請人は申請人に対し金二、五〇〇、〇〇〇円及び昭和五〇年一〇月以降本案判決確定に至るまで毎月二〇日限り金八二、九一二円を仮に支払え。

三、申請人のその余の申請を却下する。

四、訴訟費用は被申請人の負担とする。

事実

第一、当事者の求める裁判

一、申請人(申請の趣旨)

(一)  申請人が被申請人の従業員としての地位を有することを仮に定める。

(二)  被申請人は申請人に対し昭和四六年七月一七日以降毎月二〇日限り金八二、九一二円を仮に支払え。

(三)  訴訟費用は被申請人の負担とする。

二、被申請人(答弁)

(一)  申請人の申請を却下する。

(二)  訴訟費用は申請人の負担とする。

第二、当事者の主張

(申請の理由)

一、被申請人会社は、船舶・原動機・各種機械、航空機等の製造販売その他を業とする我が国最大規模の株式会社であり、昭和四六年当時、東京に本社を置き、日本全国にわたり、一二の事業所、七つの営業所、三つの研究所を有し、約八万名の従業員を擁していた。右一二の事業所の一つである名古屋航空機製作所(以下「名航」という。)は、主として防衛庁を顧客とする航空機・ミサイル等の製作・修理を行ない、大江・小牧・大幸の三工場を有し、約七、五〇〇名の従業員を擁していた。

二、申請人は、昭和三八年三月京都大学経済学部を卒業し、同年四月被申請人会社の前身である新三菱重工株式会社の従業員となつて右会社の名航勤務を命ぜられ、昭和三九年右会社が他の二社と合併して被申請人会社となつて後も引続き名航に勤務してきた。名航において、申請人は、見習期間(集合教育期間)終了後、昭和三九年七月一日以降勤労部管理課調査係に所属していたが、昭和四二年九月一五日同部安全福祉課保険係に配置転換されて、後述の本件配転命令を受けるまで同係に勤務していた。<中略>

(被申請人の主張)

一、本件配転命令に至る経緯<中略>

(五) 大営からの勤労要員の割愛方の要請を受けた名航においては早速勤労部内で大営総務部勤労課への転任候補者の人選をすすめたが、当時部内には大営からの要請にある大学卒七〜八年、四―五級に該当するものは、嘉戸登、前島延行、久保田孜朗及び申請人の四名の社員がおり、同人らの入社後の職務経歴、部内事情等は左記のとおりであつた。

1 嘉戸登。出身地京都市、昭和三八年三月関西学院大学経済学部卒。同人は同年四月当時の合併前の新三菱重工株式会社に入社しその名機総務部勤労課教育係に配属となり、同四四年三月同部大幸総務課勤労係に配転となつて給与関係の業務に従事していたが、同四五年一月一日に名航勤労部管理課に大幸勤労係が新設された際、名航から名機に特に懇請のうえ割愛して貰い名航勤労部管理課大幸勤労係勤務となり、同年一〇月同係が同部大幸勤労課になつた後も引き続き同課勤労係に勤務してきたもので、この間同年五月一日事務技術職群四級に進級しているが、職務経歴等のキヤリアの面では同人は略々大営からの割愛要請に適応するものの、名航大幸工場には約一、四〇〇名の社員がおり、これに関する人事・給与・厚生・保険・教育等の業務を分掌する同係は係長以下男子六名、女子六名の社員で構成され、現にその業務は多忙を極めていたところ、右男子六名の係員中二名は定年到達後雇用延長中のものであり、一名は定年間近かのものであつて、同係としては現在右嘉戸を他に転出させれば忽ち業務の停滞を招くことになる。またローテーシヨンの面で今同人を他に転任させることには難点がある。

2 前島延行。出身地大阪市、昭和三八年三月天理大学体育学部卒。同人は、同年四月入社し、名航勤労部教育課に配属となつて以来今日迄技能訓練生の指導担当者として専ら教育訓練の業務のみに従事してきたもので、この間同四四年五月一日事務技術職群四級に進級しているが、大営から要請のあつた給与・厚生・保険全般についての業務についての経験がなく、キヤリアの面で大営の要請する要件には適応しない。

3 久保田孜朗。出身地東京都、昭和三九年三月一橋大学法学部卒。同人は同年四月入社し、名航勤労部管理課調査係に配属となつて以来今日迄勤労統計、人事勤労関係業務の機械化、規則関係業務を行なつてきたもので、この間同四五年五月一日事務技術職四級に進級しているが同人も職務経歴のキヤリアの面で略々大営からの割愛要請に適応するものとはいえるものの、名航勤労部は他の部門と同じく事務合理化をすすめてきておりその一環として昭和四四年以来人事勤労関係業務の機械化を推進しているところ、同人はこの業務の唯一の担当者であり、同人を転出させれば右機械化の推進を一時挫折させることとなるのみならず、現在の日常業務としての給与支払業務、人事管理業務に大きな支障を来たすことになる。

4 申請人。出身地京都府綾部市、昭和三八年三月京都大学経済学部卒。申請人は同年四月入社し、名航勤労部管理課調査係に配属となり労政、諸規則関係、関連企業指導、社内報編集等の業務に従事し、その後同四二年九月一五日同部安全福祉課保険係に配転となつて爾来保険業務、保険組合業務に携わり、この間同四五年五月一日事務技術職群四級に進級しており職務経歴等のキヤリアの面では大営からの割愛要請に適応している。一方申請人が所属する同課保険係においては申請人が他に転任すれば右担当業務にかなりの影響があるものの、同係の橋本係長、高木(女)社員は同業務にかけての一〇数年の経験を有するベテランで申請人の後任者が育つ迄、右転任の穴を埋め得ることが期待される。<中略>

二、本件解雇に至る経緯<中略>

(六) そこで、右同日百瀬勤労部長から申請人に対し、「申請人が昭和四六年六月一四日に被申請人会社の業務上の必要により大営総務部勤労課への転任の内示を受けて以来、数次に亘たる上司の説得にも拘らず、正当な理由がないのにこれを拒み、同年七月一日に発令された右転任辞令を返上し、その後の上司からの再三に亘る説得に対しても具体的な理由を述べることなく自己の主張を固執するのみで、業務命令たる本件配転命令を拒否して赴任せず、さらに、同年七月二日以降数次に亘り出勤・退場時に名航大江工場や名機大幸工場、同岩塚工場等の門外にて被申請人会社の本件配転措置を非難・攻撃するビラを配布して社員の会社に対する不信感を醸成しめた行為は、会社の正当な人事運営を妨げ、著しく会社の業務に支障を招来し、経営秩序を乱したもので社員にあるまじき行為であつて、申請人の所属する名航の社員就業規則第六五条第一項第五号・同第一五号に該当する」との理由をもつて、懲戒解雇に処する旨の意思表示をした。その際、被申請人会社は未払給与と解雇予告手当を交付しようとしたが、申請人がその受領を拒否したので、同月一九日名古屋法務局にその供託をした。<後略>

理由

第一申請の理由一・二の事実及び被申請人が申請人に対し昭和四六年六月一四日大営への配転を内示し、同年七月一日本件配転命令を発したこと、申請人がこれを拒否して、同年七月一六日本件懲戒解雇がなされたことは、いずれも当事者間に争いがない。

第二本件配転命令がなされる背景

<証拠>によれば、次の事実を一応認めることができ、<証拠判断省略>

一(被申請人会社名航における事業の内容及び秘密保持)

昭和四六年当時、被申請人会社は、名古屋地域に名航・名機の二事業所及び名古屋営業所を有し、昭和四五年に被申請人会社から分離した三菱自動車工業株式会社の名古屋自動車製作所(名自)は、名航・名機と密接な関係を保つていた。名航は、右当時、約七五〇〇名の従業員を擁して、総事務所を名古屋市港区大江町に置き、右同所所在の大江工場・同市東区大幸町所在の大幸工場・愛知県西春日井郡豊山町所在の小牧工場によつて生産を行なつていたほか、小牧市郊外味岡地区に工場を建設中であつた。そして、大江工場では航空機体の新製(部品製作・部分組立)・宇宙機器及び飛昇体の新製を、小牧工場では航空機体の新製(部分組立・最終組立機装・飛行試験)・航空機体の修理を、大幸工場では航空エンジンの新製及び修理・油圧機器の新製を行なつていて、名航における生産高の約七割が防衛庁需要によつて占められていた。名航は、昭和四二年から同四六年にわたる国の第三次防衛力製備計画(第三次防)に至るまでに、F・八六F戦闘機・F―一〇四J戦闘機・HSS―二対潜哨戒ヘリコプター・ナイキJミサイルの生産に従事する等して、昭和四六年には、防衛庁発注額の約四分の一の受注を得るなど、我が国防衛産業における中心的存在としての地位を占め、昭和四七年から同五一年に至る第四次防衛整備計画(第四次防)においても、その地位を固め、更にこれを拡大するため、被申請人会社は多大の努力を払つていた。

名航において防衛生産の占める割合が大きく、また、被申請人会社がその積極的推進を図つてきたことは、従業員の労労働条件についても各種の影響を及ぼすものであつた。例えば、会社の行なう従業員教育の内容として防衛生産の必要及びそれへの積極的協力の姿勢が説かれ、防衛生産についての批判的思想・信条に対する排撃とあいまつて、従業員間に思思想・信条による差別を生み出す基盤を醸成し、また、昭和四三年項からは、高卒・大卒の新入社員に対し航空自衛隊浜松基地の協力を得て、自衛隊による実習訓練を受けることが義務付けられた。更に、防衛生産に従事することは、日米相互防衛援助協定等に伴う秘密保護法一条三項に規定する秘密(防衛秘密)や防衛庁の指定する秘密(一般秘密)に接することが多いから、被申請人会社においては、昭和三二年以来「防衛秘密保全規則」が制定され、特に許可を受けた者でなければ立入りや近付くことを禁止される区域が設けられる等、秘密保全のため各種の規則が加えられてきた。また、高度の秘密性を要する生産・研究等に従事する従業員に対しては、資産・負債の内容・交際の理由・程度をも含めた二名以上の交友関係、扶養家族・一七歳以上二親等以内の親族・間借人や家事使用人などの同居人につき全員の身上関係、加入・脱退の理由をも含めた団体・会・クラブ・連盟・運動等の関係諸団体等に至るまで詳細にわたる経歴明細書の提出が求められた。また、名航の三工場にはそれぞれ防衛庁からの駐在官事務所が置かれて、一〇乃至二〇名余の駐在官が配置され、時に生産場をも巡回しつつ、受領検査・工程検査・原価監査等の業務を行なつている。また、昭和四三年夏に航空機メーカーの新明和工場伊丹工場がデモ隊によつて侵入された事件を契機に、名航においても「外部からの暴力破壊活動などによる非常事態発生に備えて、警備体制を整備し工場防衛に万全を期する」ため、「保安課長は常時治安機関と緊密なる連絡を保ち、情報の収集に努めると共に必要に応じて遅滞なく機動隊の派遣方を要請」し、保安課の要員のみによつて警備の万全が図れない場合には、各職場に概ね男子従業員の二割を以て構成される自衛班も防衛隊員として「機動隊の警備網を逃れて境内へ侵入する者の発見に努めると共に状況に応じて適切な措置をとる」体制が非常事態警備要領として策定されるに至つた。

二(被申請人会社の組合対策及び従業員教育)

被申請人会社には、その従業員を以て構成される全国単一の三菱重工労働組合があつて、名航にはその支部が組織されている。右組合は、会社の業績の向上に協力することがひいては労働者の生活向上に通じるとのいわゆる労使協調路線を基調とし、被申請人会社の行なう防衛生産に対しても積極的協力をおしまないという潮流が執行部その他の役員を支配していた。被申請人会社は、労使の基本的利害は一致するとの点において組合執行部と意向を同じくし、従業員教育等の機会をとらえてこれを従業員に周知徹底するとともに、労働運動の中で労使協調路線と対立している「労使関係は、労働者と資本家の基本的に利害の相反する関係である」とするいわゆる階級的労働組合路線に対する非難を行ない。労使協調路線をとる組合執行部に多面的な協力を行ないつつ、階級的組合路線からの影響力が従業員の間に侵透していくことを極力排除するとの組合対策の基本的方針に則つて行動してきた。組合執行部もまた被申請人会社のこのような基本的方針を利用して、労使協調路線に沿つた組合運営及びその体制の維持に力を注ぎ、階級的労働組合路線にたつ潮流が影響力を伸長することに対しては、強い敵慨心をもつて対抗してきた。以上のことは、次のような事例において、特に顕著に現れてきた。

(一)  三菱自動車工業株式会社が被申請人会社から分離する以前、名自において行なわれた臨時工から本工への採用替教育において、被申請人会社は、経営者と労働者は相互努力と信頼により結び付いて、企業の成長により配分源資の増加を計からねばならない同甘同苦の運命共同体にあることを説き、特に共産党・民青同をその革命路線・労組対策等の面において詳細にわたり非難した後に、「ここ数ケ月連日の如く当所従業員に対して三菱労組を強くする会・日共南地区委員会の名でアジビラが配られている。これは部外者からの中傷と共産分子のアジ活動です。どうかみなさん、長船社研(三菱労組を強くする会を支配している日本共産党より色の濃い左翼分子との説明が加えられている。)や共産党に振り廻されないで断固たる態度で勤務して下さい。」と呼びかけた教育資料を配布して従業員教育を行なつた。

(二)  昭和四〇年三月一八日名航勤労管理課長は各課に波多野鼎著「共産主義批判」を配布し、「監督者に回覧させ、従業員指導教育の資料として十分活用」するよう指示した。

(三)  昭和四五年名航において実施された新入社員教育においては、講師として出席した勤労部主務横地が、会社と社員は運命共同体であり、名航のように防衛産業に従事する会社では共産分子等に対する企業の思想的防衛が必要である等の趣旨の教育を行なうとともに、名航には約一〇〇人のトロツキストがいて暴力により会社を破壊しようとしている極めて有害なものであると説明しつつ、特に申請人の名前を黒板に書いて申請人がその親玉である旨説明した。

(四)  昭和四六年五月三〇日三菱重工労働組合の名古屋三支部が愛知県勤労会館において講演会を行ない慶応大学教授中村菊男の「左翼労働運動とその実態」についての講演を組んだ際、名機勤労課長は同月二六日名機各部課長に「内容的には先般来の労働講座を補充するものとして極めて参考になると思われますので、貴課管理監督者、相談員など労働講座受講者にご案内下さるようお願い申し上げます。なお、本件飽くまで組合の行事でありますので職場委員を通じて参加申し込みをして下さい」との指示を発した。

(五)  被申請人会社は、全社的規模において労使協調路線に従順でないグループ或いは個人の発見・情報交換に努めその対策を考えてきたが、名航においても勤労部を中心として、他の事業所・営業所等と連絡・資料交換を重ねつつ、また公安関係者からの情報入手・保安課員による名航門前で配布されるビラ類の入手・組合役員からの組合情報の入手・職制を通じての情報収集その他諸種の方法によつて情報の収集に努め、適宜対策を練つてきていた。その結果、例えば、昭和三九年三月頃被申請人会社の勤労関係の課長以上が出席して開かれた勤労連絡協議会の席に当時の組合名古屋支部委員長佐久間久末が出席して、組合から派遣されて傍聴してきた全造船機械三菱支部長船分会の大会の模様・同分会の状況等につき、組合の職場委員にもまだ見せていないと言いつつ、資料を配布して、同分会の執行部の派閥分布等を詳細に説明して、派閥間のイデオロギー論争が職場の組合員と必ずしも結びついていないので、何でもよいから一本にまとまつて欲しいというのが組合員の気持であり、三菱系重工の今後の課題はこの気持に応えることである旨の報告を行つた。昭和四四年三月から同年末迄の間に名航大江工場において行なわれた課長会議等の席において、共産党員については昇給を最低点にするとの方針が伝達され、「共産党関係者本人が自分は正しいと考えることは憲法上問題はないにしても会社としては良くないので、自分は正しいという考えを変えてもらわねばならない。共産党員と交際しても良いという考えも誤解を招くからやめてもらわねばならない。会社方針に従わず自己の道を進むのであればそれに対する反撃は当然受けるべきである」等の発言がなされた。昭和四四年八月実施されていた組合名航支部の執行委員選挙に関し、申請人ら労使協調路線に反対する立候補者を名指しで挙げてその落選を図るべく、職制が働きやすいよう組合と連携を企り、会社の方針に沿うようにするとの方針が話合われ、当時申請人が活動を進めていた「三菱重工の組合を強くする会」や「無花果の会」について、強くする会は六〇〇名程の会員を擁しそのビラをまいているのは名工大・名大などの反代々木派社学同統一派の約一〇〇名であつて、四・二八沖繩デー・デモで逮捕された南部反戦青年委員会とも連携がある、無花果の会は一〇〇名程の会員を擁し青婦協に働きかけている等の背景報告がなされ、また、名航における労働運動の傾向に関し、勤労部か、要注意人物として、共産党・民青トロツキスト・その各同調者・その他として人数を示したうえ、「大幸が表面上一番活発である、小牧は表面はおとなしいが一番巧妙である。機体研究課の女子で有力なものを送り込んだとの情報が調査結果あつたので女子にも気を付けよ。」等の注意がなされる等、詳細な情報に基づく強い対策の必要が唱えられてきた。

(六)  名航においては、組合に専従の執行委員一一名、専従の書記七名が置かれてきたが、昭和二四年の労組法改正後も会社・組合のいずれからも問題視されることなく、従前同様、専従執行委員の期末一時金の全額を会社が査定し会社において負担し、組合専従書記全員を会社在籍扱いとして会社がその賃金を負担する取扱いが踏襲されてきた。執行委員の期末一時金については、申請人が昭和四二年一〇月の組合大会において右扱いを追及したことを契機に、昭和四三年期末一時金から右扱いを廃し、会社が更生資金として組合に贈与するものを資金として組合が支払うようになつたものの、その経緯は一般組合員に対し説明されないままであつた。また、専従書記七名中四名を組合籍に移し、組合がその賃金を支払うようその後変更がなされたが、それは、本件申請書において右会社負担の取扱いの不当が追及された後のことであつた。

(七)  昭和四一年六月組合は被申請人会社の下関造船所・長崎造船所・広島造船所へ組合視察団を派遣したが、当時、右各事務所においては労使協調路線を採る第二組合が結成され動揺が続いていた時期であつて、右視察団派遣は第二組合支援の目的をもつてなされたものであつた。これに対し被申請人会社は、名航・名自・名機から各一〇万円の援助を行ない、組合はこれを組合員に秘したままにしておいた。

(八)  被申請人会社は組合役員の海外視察に対してもその旅費を負担しており、このことは組合員に秘されたままにされている。また、そのような際、制度的には餞別金を支給しないとしつつ、視察に行く者が労使協調路線をとるか否かによつて、人物によつては八〜一〇万円の餞別金を負担する取扱いをとつてきている。

(九)  被申請人会社においては、全社的規模で、組合の役員選挙に労使協調路線を批判する分子が立候補・当選しないよう、組合と協力しつつ、各種の圧力を用いてきた。昭和四一年一一月木曾川荘において開催された全社勤労会議では長崎造船所から、労使協調路線を採つていた「新労結成以来約一年になるが、約二〇パーセントの反対票があり、しかもその反対票が船関係の方に多いという状況にある。新労の内部にも問題があるが、会社としても新労のバツクアツプに不十分な点があつたのではないかと反省し、更にバツクアツプに努力したい」、下関造船所から「一一月中旬に予定された新労の役員改選を機会に新しい組合の基調が一般組合員に判つてもらえるよう会社としても努力したい」名自から「組合の職場委員の定数が三九名から四九名に増え、共産党関係者が三名立候補したが、働きかけにより落とすことができた」と、それぞれ報告された。

(一〇)  被申請人会社は下請会社の労働運動に対してもそれが労使協調路線に立つ労働組合となるよう組合と情報交換・協力関係を進めてきた。例えば、昭和三九年二月項下請会社の神菱エンジニアリング名古屋出張所に労組結成の動きがあつたのを察知した名機勤労課は、組合にもその旨連絡して、「当社労組の指導を得て積極的に健全な労組を作らせることが好ましい」との基本的視点に立つて、当面の対策として中心人物の動向・思想的背景の有無等の調査を行なうとの方針をとつた。また、昭和四二年五月下請会社の千代田工業株式会社に全金愛知本部の支部ができ、引き続いて第二組合ができて全金同盟金属に加盟すると、名機勤労課は、組合から愛知同盟に派遣中の村山愛知同盟書記長と十分連絡をとつて第二組合をバツクアツプするとの方針をとつた。

(一一)  昭和四〇年七月に実施された参院選挙には、前新三菱重工労組委員長で当時造船総連の委員長であつた基政七が組合の推せんを受けて立候補したが、その際、被申請人会社は組合に対し選挙運動のために修理代・ガソリン代負担のうえ自動車を長期にわたり貸与し、また、就業せずに選挙活動に従事した組合員の賃金カツト分を後に極秘に組合を通じて補償し、或いは、就業時間内に選挙用挨拶文を名航勤労部員らに書かせた。昭和四六年六月に行なわれた参院選挙には、三菱重工労組委員長柴田利右衛門が立候補し、組合は積極的にその選挙運動を行なつたが、被申請人会社も大規模にその応援を行ない、就業時間内に下請業者への働きかけや後援会加入者への宛名書を従業員に行なわせ、後援会の発会式には本社取締役勤労部長・名古屋の三事業所各所長等が参加したほか、組合が就業時間内に被申請人会社の構内放送を利用して柴田候補の総決起集会への参加を促し、柴田候補が組合役員とともに就業時間内に職場を演説してまわり、また、組合掲示板以外に右候補の選挙ポスターを掲示するのを許可し、また、同候補の選挙事務所の用員として賃金を会社負担として女子社員を連日一、二名派遣する等の便宜を供与した。

三(申請人の組合活動及びこれに対する被申請人会社の対応)

(一)  申請人は被申請人会社の前身である新三菱重工業株式会社に、いわゆる本社採用の新規大学卒業者としていわば将来における管理職候補者として、職員(見習用)の身分で採用されたものであるが、右大学卒業後の直前、既に申請人の採用を内定していた右会社は、身許調査の結果、申請人が大学在学中に自治会副委員長として学生運動を活発に行ない、デモ等にも参加していたことを知つて本社人事部次長谷正次から申請人の大学時代のゼミ担当教授に対し、申請人の採用内定を取消したい旨の意向を伝えたところ、同教授から「こういう男は使い方によつては使い物になるんだから」と言われたこと等から、結局は採用されるに至つた。かくして、申請人は、会社からみて有能な管理職者となる期待とともに会社の採る前記労使協調路線にとつて危険人物となる可能性を孕だものとして、谷次長から右事情の申し送りを受けた勤労関係の経験の長い当時の名航勤労管理課調査係長大脇俊貴の継続的な指導・監督の下に置かれた。申請人は、名航勤労部教育課における所内集合教育の後、昭和三八年七月一日右調査係に配属となり、以後、勤労部に配属された同期生が同部各課の実務修習を経るのに、申請人のみは専ら大脇調査係長(昭和三八年八月以降は管理課長付)の下で調査係の業務のみに従事して、昭和三九年四月「事務」たる正職員になつた。

名航勤労部管理課調査係の業務は四グループにわかれて遂行されていた。即ち、①対労働組合・規則関係グループ、②機械化・統計関係グループ、③社内報関係グループ、④庶務グループの四つである。そのほか、昭和三九年六月の三菱系三重工合併後、従業員身分制度の合理化の必要が生じ、右調査係に、昭和四一年から同四二年までの間、⑤社員制度(職場分析・評価)グループが設けられた。申請人は、昭和四二年九月に勤労部安全福祉保険係に配転になるまでの右調査係在籍中、当初社内報関係グループ(名航の社内報「名航ニユース」の取材・編集・新聞・雑誌等に出る被申請人会社・名航関連記事の収集を担当する。)を昭和四一年七月から同年九月までの間社員制第グループを各担当した以外は、対労働組合・規則関係グループに属していた。同グループの担当業務は、組合との折衝・労働協約・事業所協定関係業務、就業規則・賃金規則等勤労関係諸規則の制定・改廃・適用解釈・運用に関する業務、長期・短期の人員計画立案業務、関連下請会社の労務管理指導業務等と広範に及び、その性質上、組合関係の情報にも精通していることが要求され、申請人も上司たる大脇管理課長(昭和四〇年一月、管理長付から同課長となる。)から右グループの業務遂行に必要な組合関係、労働運動関係の情報には極力目を通すよう指示されていた。

(二)1  申請人は右のような事項を担当する中で、前記一及び二の如き会社及び組合の実態をつぶさにみるに及んで、組合の建て直しの必要を強く感じ、まず青婦協の役員として沈滞した青婦協活動に新しい芽を育てようと決意し自ら立候補して、昭和三八年一〇月から同三九年九月まで、当時の新三菱重工労働組合名古屋支部大江青婦協事務長となり、更に、同年五月三菱重工統一青婦協が神戸において結成総会を開催して発足するとその運営委員に選ばれた。右青婦協会員への立候補に際しては、勤労部も積極的に立候補を勧める等これを支援する姿勢を示していた。申請人は青婦協活動を続ける中で、それまで殆ど発行されずにいた青婦協の機関紙を確実に発行することに努め、殆ど消滅していた青婦協の各種サークルを復活し、また、会社にとつて好ましくない講師を招いて講演会を開催する等の活動を行うとともに、退任に際しては申請人の意思を継いで活発な青婦協活動を続けてくれる人という基準で人選に努め、会長・副会長・文対部長等の要職を積極的活動家に引き継ぐことに成功した。この間、申請人の青婦協活動が活発の度合を強めるにつれ、組合の大江地区執行委員加古茂が、しばしば申請人の上司の大脇管理課長付の許へ来て、申請人が少々やりすぎている旨圧力をかけることがあつたけれども、申請人が会社から攻撃の対象とされることはなく、昭和四〇年三月管理課における歓送迎会の二次会の場で、百瀬勤労部次長が申請人に対し「現在の青婦協はアカの巣窟になつている、会長・副会長・文対部長は断固弾圧する」旨宣言するような状況であつた。

2  右青婦協活動とあわせて、申請人は、被申請人会社における労働組合運動を立て直そうと、昭和三八年夏頃以降、全国的な横断組織である「三菱重工の組合を強くする会」の設立準備委員としての活動を展開し、昭和三九年六月「強くする会」が「三菱重工の労働者の生活と権利を守るために、労働組合のご用化と官僚主義に反対し組合を強め、組合民主主義を確立する」ことを目的として発足するに至り、申請人はそれ以後その中部ブロツクの代表者として活動してきた。「強くする会」の主たる活動は、ビラや機関紙の配布・学習会の開催等であつて申請人は中部ブロツクの発行するビラ等の原稿を殆で一手に引受けていた。右活動を進めるにあたつて、申請人は「押谷喬」なるペン・ネームを用い、会社及び組合に申請人と「強くする会」の関係が露見することのないよう気を配つていた。組合の名古屋支部は昭和三九年八月二二日機関紙「菱名労」において、「強くする会」の中心となつているグループは、労働運動をダシに使つて暴力社会革命をスローガンとするもので組合とは相容れないものである、これらのグループは三菱という全国組織を切り崩し、あることないことデツチ上げて組合を混乱におとしいれ、ひいては、意味のない闘争にヒキズリ込んでニタリとしているグループである旨主張していた。

3  また、申請人は昭和三九年九月から組合協議員となり後記のとおり職場委員となつた昭和四二年八月までこれを勤めていたが、職場委員に要求して職場集会を瀕繁に開かせることに意を注ぎ、また、組合員が自主的組合活動に立ち上がつていく基盤をつくるのに資するよう、昭和四二年三月、勤労部を中心として名古屋労演に参加する会をつくり、この会は後に「無花果の会」と命名され、一〇〇名位の会員を擁するまでになつた。申請人はまた昭和四〇年一月一日号からの三菱重工労組名古屋支部の機関紙「菱名労」に「労働組合入門」を連載執筆した。

(三)  申請人が右のように諸種の活動を進めている間に、被申請人会社は、申請人が昭和四〇年四月に開催された「強くする会」の運営委員会に出席した事実を察知して、同年八月二日及び一四日の二回にわたり、申請人の上司たる浦上勤労部長、百瀬同部次長、大脇管理課長、柴田調査係長らが「君は強くする会の運営委員をやつているだろう」、「押田(申請人のペン・ネームと発音が類以している。)というのは君のペン・ネームではないか」。「いつまでもしばらつくれていても仕方がない、はつきり言つたらどうだ」等と結問するにおよび、申請人は「しばらく考えさせてくれ」とその場を辞した。そして、同年八月一七日、申請人は「結論は出たか」という浦上部長に「これからの活動は陰性から陽性へ転化します」と答えたので、浦上部長もそれ以上の説得を試みることなく、右問題については双方が独自に自己の道を進むことが明らかとなり、被申請人は、申請人の活動に対し妨害工作を執拗に加えるようになつた。

(四)  申請人は、昭和四一年七月職場委員に立候補する意思を固め、前任者の西川春吉も再選を望まず申請人に譲るつもりでいたところ、立候補受付がなされる以前に、大脇管理課長は申請人に対し、当時申請人が社員制度グループで分析員として働いていたことを理由に、社員制度の分析員は秋に非組合員の提示をするかもしれないので非組合員になるかもしれないから、立候補をとりやめるよう申し向けた。申請人は、九月に当選しても一〇月に非組合員となるのでは組合に迷惑をかけることになると思つて、右説得に応じたところ、当時、名航勤労部とも密接な関係を有する名機勤労課で同じく分析員の業務に携わつていた嘉戸登は何らの支障もなく職場委員となり、そのうえ分析員の非組合員提示もなされなかつた。

(五)  昭和四二年八月に行なわれた職場委員選挙に際しては、申請人は同年七月頃から職場の組合員に対し立候補の意思を表明し、同一選挙区の当時の職場委員斉藤宣夫(勤労部安全福祉課保険係員)も立候補せず申請人に譲る意思を固めていた。ところが、申請人が祖母の死亡のため忌引休暇をとつていた八月一五日から一七日かけて、百瀬勤労部次長、大脇管理課長、柴田調査係長、橋本保険係長らが執拗に「申請人が立候補しようとしているけれども、それはまずい、是非もう一期出てくれ。」、「申請人は職場委員になれば反執行部的な言辞をはく、申請人は理路整然としやべつて影響力が大きい、勤労として申請人を職場委員に出すのは絶対に避けたい」「申請人は今の組合に対して敵対的な行動をとる恐れがある、それから申請人の仕事は非組合員の仕事があるんだから、何とかもう一期やつてくれ」等と説得を重ね、柴田調査係長、西川調査係員(非組合員)の両名が半ば強制的に斉藤に推せん状へ署名押印させ、水野新吾を推せん責任者として推せん状への推せんを取りつけてしまつたが、斉藤は右推せん状を回収した。他方、申請人が八月一八日忌引休暇を終えて出社すると、大脇管理課長、柴田調査係長、西川調査係員らは、「君は非組合員的な業務をやつているから職場委員になるのは困る」「君が勤労から(職場委員に)出るのはまずい、君は京都大学を出ていて理路整然と話すことができる、したがつて、かなりの影響力を発揮することができる、だから勤労としてはどうしても困るんだ」等と、立候補取り止めを迫つたが申請人はこれを拒否して立候補手続を了した。八月二一日に信任投票が実施されたが、百瀬勤労部次長が各課の係長に申請人を落とすように部下に働きかけることを命じ、また安全保険課の浅井清が正規の投票時間たる昼休みに先立つて午前の就業時間内に同課の組合員に投票用紙を配つて何らの趣旨も伝えないままに不信任を意味する「×をつけよ」と票をとりまとめ、これに対し職制は何らの注意も与えず黙認していた。右投票の結果は、信任二三、不信任三九であつたが、右のような選挙の不正常さを理由に選挙無効を申請人が組合選挙管理委員会に申立てた結果、右申立が認められ、八月二四日再投票が行なわれた。右再投票においても、被申請人会社は職制等を通じて申請人を落選させるよう妨害したが、再投票の結果、信任三八、不信任二五、白票二で信任された。

(六)  申請人が右のとおりの職場委員に信任された直後の昭和四二年八月三〇日、被申請人会社は申請人に対し①申請人が職場委員になつたから調査係員として非組合員業務に携わせることはできない、②将来のために多くの業務を覚えるのが勉強になる、との二点を理由として示して、「九月一日付で勤労部管理課調査係から同部安全福祉課保険係へ配転する」旨の内示を行なつた。申請人は、右配転が不当労働行為であるとして抗議したが、前任者の斉藤宣夫(高卒・申請人より二歳年少)が既に九月一日付で小牧勤労課への配転を了承していたこと、右配転を受けても従前同様の組合活動を行なう妨げとならないことを考慮して、結局九月一五日付をもつて右配転に応じた。申請人は右配転に応じる旨意思表明をなした際、浦上勤労部長は申請人に対し「君は無責任であり、勤労マンとして失格である。君のようなのをじやじや馬というのだ」等の暴言を吐いた。ところで右にいう「非組合員業務」というのは、当時、申請人が行なつていた対労働組合・規則関係グループの担当者中会社と組合の協定によつて一名のみが非組合員とされておりそれが前記西川係員であつたが、残る一名の申請人においても上級者の監督を受けその補佐的役割を果たすものであるにせよ、会社側に立つて組合との交渉について手続・回答内容等の素案を作成するほか、会社側に立つて労組対策の問題点等を検討し、或いは労使協議会の席等において会社側幹事の役を勤める等のことがあることを意味するものであつた。

(七)  申請人は、右配転後給与において成績係数を下げられ差別されていると今津安全福祉課長に抗議したが、今津課長は、申請人が保険係におけるチームワークを乱していないことを認めつつも、申請人は協調性がない、協調性とは仕事中だけでなく仕事を離れても会社に貢献しなければならないのだと申請人の諸活動を暗に非難しつつ、「強くする会」発行のビラを指し示しながら、こういうことを止めれば浦上部長にとりなしてやつてもいい旨言明した。

(八)  被申請人会社は、申請人が「強くする会」の活動をやめようとしないことを知つて後、職制を通じ或いは家族に働きかけたりして「無花果の会」の会員や、申請人と交際のある者、右職場委員選挙において申請人の推せん人となり或いは支持した者等に対し、申請人と付き合わないよう執拗に圧力を加えてきた。また、昭和四三年五月に開催された浦上勤労部長と勤労部員の懇談会において浦上部長は「勤労マンの特殊性を考え円滑な労使関係に役立つ人間になれ。そういう心構えのない輩は、話し合つても無駄である、そういう人には会社をやめてもらう。共産党や強くする会のビラは内政干渉もはなはだしい。三菱では政治活動をやらないことになつている。やりたければ外に出てやれ」との話をした後、申請人を名指して「君は強くする会のビラをどう思うか」と結問した。組合名航支部もこれに呼応して昭和四三年年頭にあたつて執行委員長佐久間久末は「強くする会の名でまかれるビラは御都合主義であつて無責任きわまるものであります。これら内部攪乱を意図するものに興味を持つ組合員はいないと考えますが、彼等は執拗に組織破壊活動を続ける可能性が強いので、あえて申し上げた次第であります」等とあいさつを発表し、同様の非難を大会や組合機関紙において繰り返し発表してきた。

(九)  申請人は、このような会社及び組合双方からの妨害を受けながら、「強くする会」の活動を積極的に進めるとともに、職場委員として活躍した。例えば、昭和四二年一〇月の組合定期大会においては期末一時金の要求に関し執行部提案に対し修正動議を提出してこれを可決させ、また、職場委員会においては、少数派が存在する筈がないとして従前「満場一致」と称して反対意見を明記しないまま執行部提案が通過していたものを、明確に採決させるように改革し、各種の案件について自ら積極的に討論に立つ中で、従来とかく形式に流れがちであつた討論を実のあるものにして、他の委員らも発言しやすい雰囲気を急速に醸成していつた。加えて、申請人は、自ら職場ニユースを発行して組合の各種機関において検討されている事項を一般組合員に周知徹底させることに意を注ぐとともに、職場委員会に先立つて必ず職場集会を開き一般組合員の意向を反映できるように努めていた。かくして、執行部提案が否決され、申請人の意見が多数の支持を得るに至ることもしばしばみられるまでになつていつた。更に、申請人が勤労部管理課調査係在籍時代に手掛けたことから或る程度精通していた社員制度の改革問題についての研究会を開催した。そのほか、組合規約に思想・信条の自由を保障する一項を設けるべく奮闘し名航の組合規約には右規定を入れさせることに成功したが、三菱重工労働組合連合会の第三回定期大会の代議員に選ばれ右大会でも思想・信条の自由条項確保のため積極的発言をなしたもの、これを大会に認めさせるには至らなかつた。更に、職場においては、労基法違反と思われる事態が生じると積極的に率先して抗議を行なつていた。

(一〇)1  申請人は、昭和四三年八月一日告示・同月一四日投票の組合名航支部大江地区執行委員(専従)に立候補したが、被申請人会社は職制を通じて「申請人にいれるな」「申請人の応援をするな」、「申請人は強くする会の関係者だ、会社にとつて好ましくない」等々を組合員多数に申し向け、組合名航支部の佐久間委員長が就業時間中に「申請人に投票するな」等と演説してまわつたり、申請人の対立候補細江信作が就業時間中に職場をまわつて選挙運動をしてもこれを黙認する反面、申請人が組合連絡等のため僅かでも就業時間に喰い込むと今津安全福祉課長を通じて注意する状況であつた。投票の結果は申請人=一、三一二礎、細江=一、七七七票であつた。

2  昭和四三年一二月大脇管理課長は組合の前執行委員近藤正志に対し「申請人が来期も立候補するのは必至だがそういう事態だけは何としてでも回避したい。かといつて今のところ申請人の転任を受けいれてくれる所もなく何とか穏便に処理したい。申請人を現在転任させるのは出血多量となるからやらないが、来期の執行委員選挙に出るというなら、出血があつてもやらざるを得ない。申請人を名航にとどめておくための条件は、来年八月に立候補しないことであつて、それが守られればあとは是々非々主義でよいが、強くする会のような特定の背景は問題だ」と述べて、申請人の意向を探つてきたが、申請人が近藤を通じてそのような交渉には応じられない旨伝えた。その後も、被申請人会社は、申請人の転任を受けいれるところを探して、例えば、昭和四四年春、浦上勤労部長は話しがあると言つて申請人を小料理屋に連れて行き、「今日は名営の所長が君を見にここへ来る。君はどこでも断わられてこまる。行くところがないのだから、余り暴れないように」と申し向け、ややあつて名営の所長がきたが、特に紹介や挨拶もなく、話を交わすこともなかつた。

3  昭和四四年八月申請人は組合名航支部の教宣担当執行委員(専従)に立候補した。その際、被申請人会社は、前記第二の二(五)記載のとおり、選挙情勢を分析して組合と連携をはかりつつ職制を通じて、申請人の当選を阻むとの方針を樹立し、前年度にも増した妨害を行なつた。被申請人会社は、職制等を通じて、申請人の同期生や昨年度の推せん人に推せん人にならないよう圧力を加え、申請人が支持者たる麦島修一と小牧工場で選挙運動を行つているとその前後に保安課員を配置して威圧と監視を行なう等の妨害を行なつた。選挙の結果は、申請人=一、八九五票、対立候補近藤正志=三、三二三票であつた。

4  昭和四五年八月申請人は組合名航支部の教宣青婦担当執行員(専従)に立候補したが、被申請人会社は、前記第二の二(三)記載のとおり、早くから申請人をトロツキスト暴力破壊分子等と非難を重ねてきたほか、職制等を通じて「申請人と手を切れ、申請人は体制外の人間であり会社を破壊する」等と妨害工作をしたほか、作業員が就業時間内に職場内を選挙公報を持つて「申請人に投票するな」と作業員の間を示しまわるような妨害までされた。申請人はこの選挙において、従前から主張していた①労働組合は会社のものではなく組合員のものである。会社職制の介入を許してはならない。②労使協調路線では駄目だ。③思想・信条の自由を守る、ということの外に④戦争への道を繰り返さぬための労働組合を反戦平和の砦にすることを主たる主張として掲げるに至つた。選挙の結果は、申請人=二、一三一票、対立候補近藤正志=三、三六一票であつた。この結果が判明すると、申請人は大江工場の現場をまわつて来期も必ず立候補する旨挨拶してまわり、また、支援者らとの集会においても同様の決意を吐露し、その後も引き続き、従前と同様、組合員として、また、「無花果の会」・「強くする会」を基盤として更に昭和四四年軍需生産に反対し、自衛隊・安保条約の解消、戦争反対を目的として結成された三菱重工名古屋反戦青年委員会の代表者として、組合名航支部が「三菱名航に対しても、航空機生産の中止を叫ぶとともに、われわれの組合の内部事情についても中傷し介入しようとしてきているのです。われわれの組合に対し共産党や或いは三菱名航支部とは何の関係もない『三菱を強くする会』なる名前をもつて執拗にビラをまく、まつたくもつて許しがたく、この非道を重ねて指摘しておきたい。三菱の組合では、その綱領が示すとおり、これら外部よりの組合に対する支配介入はこれを排除する姿勢が確認されております」と益々申請人らの組合活動に対する対抗を強めてきている中で、積極的に活動を続けてきていた。そして、申請人のこれら諸活動の及ぶ範囲は名航のみならず、名機・名自・名営までに及んでいた。

四右認定の諸事実によれば、申請人の行なつてきた組合員としての活動のみならず、「無花果の会」・「強くする会」・反戦青年委員会を基盤とする諸活動も、組合現執行部に対する批判的活動として、すべて正当な組合活動ということができ、被申請人会社は、申請人の右組合活動が種々の妨害に抗して著々伸展してきたのを嫌忌し、被申請人会社の各営業所・事務所等の中でも特に防衛生産に傾斜しているとともに名機・名自・名営にも影響を及ぼし得る名航から申請人を排除して、その組合活動の基盤を奪うことを意図していたことが一応推認できる。

第三本件配転命令及び本件解雇に至る経緯

<証拠>を結合すれば次の事実が一応認められ、<証拠判断省略>

一(本件配転を必要とするに至つた大営の事情)

(一)  被申請人会社大営は、被申請人会社における機構上は名航等の事業所とは異り、本社に所属する営業部門であつて、主として近機・四国地域における原動機、各種機器、機械の受注・販売に関する事項を所掌し、その人的構成は四部一八課(内管理部門は一部四課、営業部門は三部一四課)で職制が編成され、昭和四六年六月末日現在二六九名の在籍人員を有している。

(二)  大営の管理部門である総務部には勤労課が置かれ、大営所属社員に関する人事・教育・勤怠・給与・厚生福祉・安全衛生及び近機・四国地域における会社の関連会社に対する労務管理の指導等の業務を分掌し、その在籍人員は同年六月末日現在一二名である。

(三)  ところで、大営においては被申請人会社の長期経営計画策定に関する方針に基づき、昭和四五年六月頃から受注の飛躍的増加を図るべく各営業部門毎に長期受注詣画の立案が検討され計画案が設定されるに至つた。そして、これに関連して、大営の人員計画を担当する勤労課においても右受注計画の立案作業と並行してこの計画達成に必要な要員予測、人員構成、増員充足方法等の検討を行なつてきたが、昭和四五年一〇月には同四八年六月に至る三ケ年間の人員計画が設定された。右人員計画は、三ケ年間において約四〇名(内男子三二名)の純増員を図る一方、過去八年間大営に新規学卒者の配属がなかつたこと等から人員構成に老令化がみられていたのを改善し、その若返りを図り、また、この要員充足は新規学卒者の配属と近隣事業所等からの中堅クラス以下の若手社員のローテーシヨンによる転任受入れを極力図つてなすことを骨子とするものであつて、本社人事部の了解を得た。

(四)  右計画に基づき、昭和四六年度採用の新規学卒者から五名が大営に配属された。また、中堅社員の転任受入れによる要員充足については、地域的に近く、転任のし易い大営の近隣事業所からこれを図ることになり、右各事業所に対し書面等による総務・営業・資材関係の人員割愛方の要請が行なわれ、名航に対しても同年四月に大営坂井総務部長名で名航松浦副所長宛書面でこれが要請がなされた。

(五)  このように大営においては人員増加の要があつたが、一方昭和四六年三月に会社の最も重要な関連会社の一つである重工ビクターエアコンから、会社の本社人事部を通じて大営に対し、重工ビクターエアコン大阪支社の総務・人事経理を担当し、同部門において支社長を補佐する同支社総務課長要員の派遣方の要請があり、大営としては、会社と重工ビクターエアコンとの関係、同社大阪支社において現に人事管理面でどうしても右役職者を必要としていること、加えて、派遣先が同じ大阪であること等から、販売面の強化を図るため、右派遣方の要請に応ぜざるを得なくなり、大営総務部勤労課から、給与・旅費・退職金・厚生福祉関係業務を担当しその取りまとめをしている岡田主任を出向せしめることとした。

したがつて、大営総務部勤労課としては右岡田主任の後任者を早急に補充する必要に迫られたが、同人の担当業務は、実務処理が中心であり、それ故に、各担当者に対し適確な規則、基準の適用解釈、異例事態の処理について指示ができる程度の能力、キヤリアを有する中堅社員が後任者として必要となつた。

二(本件配転内示に至る経過及び申請人の転任拒否)

(一)  前記のとおり、昭和四六年四月大営から名航に対して人員割愛方の要請があつたが、名航としては時期的に第三次防衛計画に基づく生産業務と第四次防衛計画に基づく生産業務の谷間にあたり操業度が低下しており、採算性向上のために間接要員の削減を余儀なくされている事情にあつたので、大営に対して右要請を前向きに検討する旨回答する一方、関係部門に対し照会した結果、資材部業務部では四次防の先行業務処理の関係上どうしても人員を割愛することができないので、あらためて大営に対して総務部、勤労部からなら人員を割愛できる旨連絡してその意向を打診した。

(二)  右名航からの連絡に接した大営では久保田勤労課長が窓口となり総務部勤労課に前記岡田主任の出向の事情があつたので、直ちに名航勤労部大脇次長に対して右の事情を述べ是非名航から勤労要員を割愛されたい、なお、担当職務は給与・厚生・保険全般をまとめるサブリーダー的な業務であり、将来は大営の営業区域である近畿・四国における関連企業の労務管理指導もして貰いたいので、大卒入社後七〜八年、四―五級程度で右のような職務に経験のあるキヤリアの人をほしい旨返答旁々要請した。

(三)  なお、被申請人会社では、社員職群等級規則に基づき社員の職群・職種・職務系統及び等級について定めているが、これによれば、職務の性質により事務技術職群等の七つの職群があり、各職群内に職務または職務を遂行するために必要な能力の程度による区分として等級が置かれているが事務技術職群には一級から五級迄の等級がある。また、被申請人会社は、将来の幹部要員として景気の好不況にかかわらず毎年一定数以上の大学新卒者を本社で採用し、本人の希望もある程度考慮し、本社(所属の営業所を含む)及び各事業所に配属し、入社後一年間は教育見習期間として会社全般の機能の概要を習得させたうえ業務につかせているが、被申請人会社には国内各地に多くの事業所等が存在し、また、数多い関連会社を有しているので、人員配置の都合によつて、配属先の事業所等内においてまたは事業所等間において、更に、必要があれば会社の関連会社に、それぞれ職場変更、転勤、転任、転籍、休職派遣が行なわれている。会社はその就業規則第二四条ないし第二六条にこのことを規定し、これは一般社員に広く周知され、本社(前同)各事業所等において社員の転任は必要に応じてその都度行なわれていた。そして、右社員職群等級規則によれば職群は採用時に付与され、大学新卒者は採用にあたつて事務技術職群二級候補として採用され、前記教育見習期間を経て二級の等級が付与され、その後は同規則の定めるところにより考課の結果等によつて、三級、四級、五級とそれぞれ進級することになつているが、この大学新卒者は通常は入社後約一〇年で五級となり、その後係長に任命されて管理職群の一級に進級するのが一般的な例である。

(四)  大営からの前記勤労要員の割愛方の要請を受けた名航においては、早速勤労部門内で大営総務部勤労課への転任候補者の人選をすすめたが、当時部内には大営からの要請にある大学卒七〜八年、四―五級に該当するものは、嘉戸登、前島延行、久保田孜朗及び申請人の四名の社員がおり、申請人を除く三名の入社後の職務経歴、部内事情等は被申請人主張一(四)1、2、3記載のとおりであつた。これに対し、申請人は、出身地京都府綾部市、昭和三八年三月京都大学経済学部卒で、同年四月入社し、名航勤労部管理調査係に配属となり労政、諸規則関係、関連企業指導、社内報編集等の業務に従事し、その後同四二年九月一五日同部安全福祉課保険係に配転となつて爾来保険業務、保険組合業務に携わり、この間同四五年五月一日事務技術職群四級に進級しており、職務経歴等のキヤリアの面では大営からの割愛要請に適応し、一方申請人が所属する同課保険係においては申請人が他に転任すれば、右担当業務にかなりの影響があるものの、同係の橋本係長、高木(女)社員は同業務にかけての一〇数年の経験を有するベテランで申請人の後任者が育つ迄、右転任の穴を埋め得ることが期待されるとみられた。

右のような、申請人らの入社後の職務経歴、所属部課内の事情からして転任させるとすれば申請人が適当であるとし、また、申請人は独身者で、出身地、出身校の関係で転任地の大阪とも馴染もあり、ローテーシヨンの面では、申請人が将来勤労部門における管理職となるうえにおいて転任先の大営総務部勤労課における前記担当職務に従事することは貴重な経験となり、その将来にプラスになること極めて大きいと考えられるので、申請人を大営への転任候補者とすることを決め、申請人に内示するに先だち大営にこの旨通知してその意向を尋ねたところ、たまたま転任先の上司となる久保田勤労課長も申請人とは旧知の間柄にあり申請人なら申分ないから是非割愛されたいとの返答があつた。

(五)  かくて、被申請人会社は申請人に対し、昭和四六年七月一日付をもつて大営総務部勤労課へ転任を命ずることを内示することにしたが、会社とその従業員をもつて組織される全日本労働総同盟三菱重工労働組合との間に締結された労働協約の定めにより、同組合の組合員たる社員を転任、転勤させる場合には、右社員の所属する会社の事業所(本社を含む)は事前に同組合の当該支部の意見を十分聴取して行なうことになつている。そこで被申請人会社は、申請人が同組合名航支部の組合員であるので、昭和四六年六月一二日組合名航支部に対し申請人の右転任方を提示し、この転任を決めるに至つた諸事情を説明して組合の意見を求める一方、同月一四日大脇名航勤労部次長から申請人に対し、同年七月一日付で大営総務部勤労課へ転任して貰いたいと転任の内示を行い、かつ、転任先での前記のような担当職務の内容と大営全般及び同勤労課において増員ないし補充を必要とする諸事情を詳細に説明し、更に、前記(四)のような事情から申請人が大営よりの勤労要員割愛要請に最も適するものであり、申請人の将来にとつてもこの転任が望ましいと考え申請人に右転任を内示するに至つたものであると述べ、申請人によく考えてこれに対する返答をして欲しいと求めた。

(六)  その後、同月一六日に大脇次長から申請人に、右転任内示についての回答を求めたのに対し、申請人は回答を留保したので、同次長が今回の転任について今迄に説明したことで解らぬ点があれば遠慮なく聞いて欲しいと述べたところ申請人は先回受けた説明以上に尋ねることはないと答えた。そこで、同次長はあらためて同月一八日申請人に会つて転任についての回答を促したが、申請人はもう暫らく待って欲しい二二日位には返事をすることができると思うと述べたので、会社はそれ迄待つこととし同月二二日に再び同次長が回答を求めたところ、申請人はその理由を述べることなく、どうしても転任したくないし、また転任しないと答えて右転任内示を拒否する態度を明らかにした。このような回答に接し同次長が、転任したくない理由もしくは事情があるのかと尋ねたのに対し、申請人はただ右転任が不当労働行為であると答えるのみで何ら具体的な事情、理由を述べようとしなかつた。同次長は、不当労働行為意思は全くないこと、並びに、転任の内示をするに至つた前記諸事情、理由を詳さに説明して転任に応ずるよう説得し、もし転任できない個人的事情でもあれば聞かせてほしいと問うたところ、申請人は「転任拒否を通じて会社や組合の出方を見たい」等述べ具体的な回答をしなかつた。被申請人会社は、翌二三日組合名航支部に申請人が転任を拒否すると回答してきたが、その具体的な理由を明らかにしないので、組合からこの理由を早急に聞いて欲しいと申入れた。ところが、申請人は二四日には寝過ぎたと称して休暇の届出に及んだので、原安全福祉課長は直ちに電話で申請人に連絡をとり、大脇次長が転任問題について話合いたいといつているから特別の用事でもない限り出社されたいと求めたところ、申請人は、自分が大阪へ行かないことは既に話がしてあり、会社は会社の考えで処置されたらよいと答えて右求めに応じようとしなかつた。翌二五日は申請人が出社したので、大脇次長が早速申請人に会つて転任できないというのであればその具体的な理由なり事情を明らかにするよう再度求めた。しかし、申請人はこれを明らかにしようとせず、ただ本日組合に話すと答えた。更に、その翌日百瀬名航勤労部長が申請人と会つて転任を促したが、申請人は頑として応じなかつた。その後二八日になつて、組合名航支部から会社に対し、申請人の本件転任問題に関し、本人の意向を聴取したところ、本人がこの転任に応ずることができないと述べている理由は、(イ)この転任は申請人の組合執行委員への立候補を妨げようとする不当労働行為であり、過去にも申請人に対しては不当労働行為がなされてきた、(ロ)大阪は公害の街でそのようなところへは行きたくない、(ハ)八年も住みなれた名古屋は去りたはない、(ニ)営業所より現場のある事業所の方が好きであるというものであるが、組合は組合として種々検討した結果、本件転任について会社が説明した業務上の必要性、申請人を転任させることにした人選についての合理的理由はいずれももつともなものであり、また、申請人が組合の次期執行委員選挙に立候補するというような理由や、その他の理由は転任を拒否する正当な理由とは認められないから、組合としては申請人に対する本件転任を了承する旨の意見表明がなされた。なお、その際組合名航支部から、申請人が転任先の大営総務部勤労課の人員配置について説明して欲しいといつているので会社から申請人に説明してやつて欲しい、会社としては更に申請人の説得に努められたいとの要望があつた。翌二九日百瀬部長、大脇次長らが申請人に会つて転任の説得を行い、既に説明済ではあつたが組合名航支部からの要望もあつたので、大営総務部勤労課の人員配置について説明しようとしたところ、申請人は、大営全体の部門別、職群、等級男女別人員配置の編成表と大営の増員計画資料の提示方を要求するに至つた。しかしながら、転任に際して転任先の営業所なり事業所全体についての右の如き人員配置の資料を示すようなことはその前例がないばかりか、このような資料には直接には本件転任とは関係がなく、また会社と三菱重工労働組合との従来からの取扱として、かかる営業所なり、事業所の全体の人員配置の編成表の如き資料は同組合の中央本部を通じてのみ提示説明するという慣行となつており、他方大営の増員計画資料も経営上の秘密資料であつてこれを提示し明らかにすることはできない性質のものであつたので、申請人の右要求には応ずることはできないとしてこれを拒否した。申請人は、翌三〇日またも休暇をとつて出社しなかつたが、被申請人会社としては、能うかぎり転任先の事情等を申請人に説明し転任に応ずるよう説得を試みようとして、組合名航支部を通じて申請人に対し、大営総務部勤労課長を名航に呼んで直接よく説明させるから不明な点は同課長に聞くようにと出社を促したが同人はこれには応ぜず出社しなかつた。被申請人会社は、申請人の同意が得られなかつたが、予定どおり申請人に対し右転任を発令することとした。

三(本件配転命令の発令より懲戒解雇に至る経過)

(一)  昭和四六年七月一日午前百瀬名航勤労部長は、申請人が所属していた名航勤労部安全福祉課に赴き、原同課課長立会のもとに申請人に対し転任を命ずる転任辞令を交付したところ、申請人は一旦これは預かると述べて受領した。しかし、その後間もなくして右原課長に転任辞令の返却方を申出てきたので、同課長がこの申出を拒否するや、申請人は不当配転であり断固戦うなどといい乍ら結局右辞令を同課長の机上に置いて立去つてしまつた。

(二)  申請人は、翌二日朝七時頃から名航大江工場近くの名鉄臨港線東名港駅前付近で出勤途上の会社の従業員らに「わたしは(7/1付)大営転任を拒否しました」と題する右転任命令には応じない意思を明らかにしたビラを配布し、業務命令たる右転任命令に断固として反抗する態度を表明するに至つた。しかしながら、被申請人会社としては、未だ若い申請人の将来を慮り、右転任命令に応ずるよう説得を試みようとし、同日出勤してきた申請人に大脇次長が会つて、申請人が転任先の事情を知りたければ、今からでも転任先の上司になる久保田大営勤労課長に来て貰つて右事情の説明をさせるが如何かと再度申し述べ、申請人が右転任につき前向きに検討するよう促したが、申請人はこれを拒否しその態度を変えようとしなかつた。翌三日朝には、被申請人会社の名機岩塚工場門前等において、再び、前日配布したビラと同一内容のビラを出勤する会社の従業員に配布する行為に出た。

(三)  被申請人会社としては、申請人がその態度を変えようとしなければ結局は申請人に対し懲戒処分上の問題が生ずるので、これを避けるべく、更に説得を重ねることにした。そして、同月六日大脇次長は出勤した申請人に対し、転任先の大営から申請人が早く赴任するよう催促があるので、是非再考して速やかに事務引継を行つて転任するよう説得を試みたが、申請人はこれを拒否した。

(四)  また、百瀬勤労部長は申請人が翌七日には出勤せず(九日午後は早退)一向に転任する気配を示さないので思い余つて、たまたま申請人の長兄が大阪市の住友電気工業株式会社本社の人事部長の要職にあることを聴き、同月一〇日面識はなかつたけれども、同人に電話をかけて本件転任の経緯を説明し、身内の者として申請人に転任を応ずるよう説得して欲しいと依頼することまでした。しかしその効果も生じなかつたので、同部長は同月一二日直接申請人に会つて、転任命令後二週間以内に赴任しないときは就業規則の定めるところにより処分の措置が講ぜられることになるから、考え直して転任命令に応じ大営に赴任するよう説得したが結局申請人はこれを拒否した。なお、申請人は、同日本件転任命令の効力の停止を求める等の本件仮処分申請をなしあく迄本件転任命令に応ずる意思のないことを確定的に表明するに至つた。

(五)  ところで、申請人は、前記のように、昭和四六年六月一四日に会社の業務上の必要により大営総務部勤労課へ転任するよう内示を受けて以来数次に亘る上司の説得にも拘らずこれを拒み、同年七月一日右転任を命ぜられ転任辞令の交付を受けたがこの辞令を返上し、その後の上司からの再三に亘る説得等に対しても従おうとせず、同年七月二日以降数次に亘つて出勤、退場時に名航大江工場等の門外にて会社の右転任措置を非難、攻撃するビラを配布したりして右転任命令を拒否し、これに反抗する態度を顕にし就業規則に定める所定の期限内に赴任しないことが明確になつたので、被申請人会社は、申請人のこのような行為は、会社の正常なる人事運営を妨げ著るしく会社の業務に支障を招来し、企業秩序をみだすものと考え、もし、申請人の右のごとき態度をそのまま放置するとすれば企業秩序維持の面からいつて由々しいことになるとして懲戒委員会を開いて申請人の右行為につき懲戒処分をなすべきか否かを審議することとなり、昭和四六年七月一五日所定の手続を経て申請人に関する懲戒委員会が開催された。

(六)  右懲戒委員会においては、本件転任の発令に至る経緯、発令後の情況等につき種々検討され、しかる後担当課長から、申請人の本件転任命令拒否の行為は就業規則第六五条第一項第五号(正当な理由なしに業務命令もしくは上長の指示に反抗し、または職場の秩序をみだしたとき)同項第一五号(その他前各号に準ずる程度の特に不都合な行為があつたとき)に該当し、懲戒解雇すべきであるとの処分原案が上程されるに至つたが、出席委員中組合側委員から、組合として右処分につき執行委員会として検討したく、また、申請人に対し最後の説得をしたいので右処分についての結論を出すのを一日延ばして貰いたいとの申出がなされ、同委員会としてはこれを了承し、翌日同委員会を開催して引続き審議することを決めた。翌一六日午後同委員会が再開され、右組合委員から、申請人に事情を説明して最後の説得を試みたがこれを拒否されたとの報告があり、引続き前記処分原案について審議した結果、同委員会としては申請人に対する懲戒処分としては右処分原案もやむなしとの結論に達し、直ちに、この審議の結果の報告手続をとり被申請人会社は、この報告を受け、右審議の結論どおり申請人を懲戒解雇処分に付することを決め、同日百瀬勤労部長から申請人に対し、被申請人主張二(六)記載のとおりの理由により懲戒解雇に処する旨の意思表示をした。そしてその際併せて未払給与と解雇予告手当を交付しようとしたが、申請人がその受領を拒否したので、同月一九日名古屋法務局にその供託手続を了した。

第四本件配転命令の効力

一一般に、使用者は、労働契約に基づき、労働者に対し、その労働の処分権を取得するといえる<証拠>。によれば、被申請人会社名航の社員就業規則第二四条第一項は「業務の都合により、転任・転勤または職場変更を命ずることがある」と、同条第二項は「前項の場合、正当な理由がないときは、これを拒否することができない」とそれぞれ規定していること及び、労働協約にも同旨の規定の存することが認められ、これに反する疎明はない。しかも、前認定のとおり、被申請人会社における本社採用の大学新卒者は、将来の幹部職員要員として、当初本人の希望もある程度考慮し本社或いは各事業所に配属され、約一年間教育見習期間として過した後は、会社の必要により全国に跨がる事業所、営業所等に転任させられることがあることを予定されていたのであるから、転任につき一応合理的理由のある限り正当の理由なく会社の転任命令を拒み得ない立場にあるといえる。換言すれば、本社採用の学卒者は、会社の不当労働行為意思が配転の決定的動機になつていない以上、会社に対し一方的な勤務場所の変更を含む人事異動権を与えることに同意したものと解するのが相当である。

二大営における前記人員計画は、被申請人会社の長期経営計画策定に関する方針に沿い、各営業部門毎の長期受注計画立案に基づいてなされたもので、申請人の主張するごとく単なる試み的なレポートではなく、実施計画であつたと考えられる。ただ、前記大営総務部勤労課岡田主任の重工ビクターエアコンの出向が右人員計画と直接の関連があつたかは極めて疑問である。何故ならば、<証拠>によれば、岡田主任は課長任命直前の主任で高卒四六才であつて勤労課給与グループのベテランであつたことが一応認められるのであり、このことよりして、岡田主任の出向は同人の適正処遇の問題として人員計画とは別個の理由から生じたものと解せられるからである。しかし理由はともあれ、岡田主任の出向が昭和四六年三月本社人事部を通じ大営に要請され具体化してきた以上、右主任の後任者を求める意味において、大営に勤労課要員を必要とする相当な理由があつたというべきである。

大営における岡田主任の後任者としての相当職務は、給与・厚生・保険全般をまとめるサブリーダー的業務であり、将来は大営の営業区域である近畿・四国における関連企業の労務管理指導が予定され、そのため後任者として大卒七〜八年、四―五級程度で右のような職務に経験のあるものが要請されていたのである。ところで、申請人の前記職務経験よりすれば、申請人が直ちに大営の要求する右業務を完全にこなすものということはできないが、短期間の経験により会社の期待に沿い得る学識・能力を十分に有していたものといえるから、申請人が岡田主任の後任者として選定されたこと自体不合理であつたとはいえない。

右説示の限りにおいて、本件配転は一応の合理性を有するものであり、本社採用の学卒者である申請人がこれを拒むにはかなり高度の合理的理由がなければならないというべきである。しかるに、申請人が組合名航支部を通じて表明してきた前記配転拒否理由のうち(ロ)、(ハ)、(ニ)のような理由が配転拒否の合理的理由になり得ないことは明らかである。

三進んで、本件配転命令が不当労働行為に該るか否かを検討する。

前認定のとおり、申請人が活発な組合活動特に反主流派の急先峰として組合の現執行部に対し批判的活動をなし、被申請人会社の嫌悪する「強くする会」・「無花果の会」、反戦青年委員会の重要人物として、会社の妨害工作にもかかわらず三回にわたる執行委員選挙において著実に票を伸しかなりの支持者・共鳴者を得てきたこと、殊に防衛関連生産が生産高の七割をも占める名航において申請人の旗印とする反戦平和の呼びかけが名航従業員に侵透することは、被申請人会社にとつて脅威ですらあつたであろうことは容易に推認できる。したがつて、前記第二の三(一〇)2で認定のとおり、昭和四三年一二月以降被申請人会社は機会をとらえて申請人を現在の支持基盤より切り離してその組合活動が会社に対し脅威を与えることのない部門に配転することを企図していたものということができる。しかし、前認定のように、組合の現執行部路線に批判的な活動家について名航勤労部を中心として他の事業所、営業所と資料交換を行つてきていたので、その間申請人の活動も他の事業所、営業所において周知するに至つたであろうことは当然であつて、申請人を敢えて受入れる事業所等がなかつたため配転が実現しなかつたものと思われる。そして本件配転に至る経緯からも容易に窺えるように、昭和四六年四月大営より名航に対し人員割愛方の要請があり、名航副所長が百瀬勤労部長に検討を命じ、大営に対し総務・勤労から人員を割愛できる旨回答をなした段階には、既に、名航では申請人を転任させる腹づもりであつたといえる。すなわち、大営よりの大卒七〜八年、四―五級の勤労部員という要請に当てはまる者は、申請人の他に前記嘉戸登、久保田孜朗、前島延行がいたわけであるが、右三名を職務内容・部内事情から転任させることができないことは十分判つていた筈であり、また従来営業所における給与実務業務に大卒者をあてた例のないことよりして同人らを転任させる意図はなかつたと考えられるからである。しかも<証拠>によれば、大営久保田課長と名航大脇次長とは旧知の間柄であつたことが認められるから、大営においても申請人の組合活動歴を十分知つたうえでその受入れを承認し、申請人を久保田課長監督下に置こうとしたものと考えられる。また、前認定のように、大営の昭和四六年六月末日現在における従業員は二六九名にすぎず、<証拠>によれば、大営には組合支部は存せず、本社支部に属する地区委員会があるのみで、組合役員としては非専従の執行委員が一名置かれているのみであることが認められる。したがつて、申請人の大営転任が実現すれば、申請人の組合活動が大きく制約され、名航における組合批判グループに対する影響力も稀薄になり、事実上孤立した状態になるであろうことは明白であり、申請人の組合活動上の利益を根底から覆えすものといえるから、本件配転命令が申請人に対する不利益処分であることはいうまでもないことである。

以上説示のように、本件配転命令は、被申請人会社の不当労働行為意思が決定的動機となつて、反労使協調路線に立つ活発な組合活動家である申請人を、その活動の基盤である名航ひいては名古屋地区より引き離すことを意図してなされたものというべきである。したがつて、本件配転命令は労組法七条一号の不当労働行為に該当し無効といわざるをえない。

第五本件懲戒解雇の効力

右説示のように、本件配転命令は不当労働行為に該当し無効であるから、被申請人の主張する本件解雇の理由のうち、申請人が本件配転命令に従わなかつたことはもとより理由のあることであり、懲戒事由とはならず、なお、会社の転任説得の段階における申請人の態度にいささか行き過ぎの面が認められないでもないが、これを懲戒事由に該るとしてこれのみをもつて懲戒解雇処分をするには極めて苛酷であり、懲戒権の濫用として無効たるを免れ得ない。したがつて、いずれにしろ、本件懲戒解雇はその効力を生ずるに由ないものというべきである。

第六  一本件配転命令及び本件懲戒解雇はいずれも無効であるから、申請人は依然として被申請人会社の従業員としての地位を有するものというべきところ、<証拠>によれば、被申請人会社は本件懲戒解雇以後は申請人を従業員として扱わず、就労を拒否し賃金を支払つていないことが一応認められる。したがつて、申請人は民法五三六条二項本文により、被申請人会社に対し賃金請求権を有するものというべきである。

二申請の理由七の事実は当事者間に争いがない。

<証拠>によれば、申請人は被申請人から受ける賃金を唯一の生活の資とする労働者であつて、自らは定期的な収入もなく、妻の収入と、本件解雇後結成された守る会等からのカンパによつて夫婦及び子供二人の家計を維持していかねばならない状況であつて、生活は相当に困窮し、既に借金が二五〇万円程度に及び、本案判決の確定をまつていては回復し難い損害を蒙むるおそれのあることが一応認められ、右認定に反する疎明はない。

第七よつて、申請人の本件申請中、申請人が被申請人人に対し労働契約上の権利を有する地位にあることを仮に定め、申請人に対し二五〇万円及び昭和五〇年一〇月以降本案判決確定に至るまで毎月二〇日限り八二、九一二円の仮払を求める限度でこれを認容し、その余は必要性がないので却下することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九三条但書を適用して主文のとおり判決する。

(小沢博 八田秀夫 前坂光雄)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例